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一盌からピースフルネスを

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2011年7月、裏千家前家元で京都ロータリークラブ(RC)会員の千玄室氏は、ハワイを訪れました。現地にあるアリゾナ記念館で行われる平和祈念献茶式を行うためです。第二次世界大戦で多くの犠牲と破壊がもたらされたことで生じた日米間の憎しみを癒やす象徴的な出来事として、この式典はマスコミにも大きく取り上げられました。

この献茶式には、千氏も強い思いを持って臨みました。

1943年、日本海軍に徴兵され、海軍航空隊のパイロットとなった彼は、戦争末期、海軍司令部により連合国海軍の艦艇を攻撃する特別攻撃隊に配属されましたが、コックピットに乗る前に終戦を迎えます。しかし、日本の戦友たち、敵対したアメリカ、イギリス、オーストラリアの多くの兵士の命が失われました。

2011年7月19日の早朝、沈没した戦艦アリゾナの船体の上に建てられた白く輝く記念館に、千氏は案内されました。1941年12月7日(日本時間8日未明)の真珠湾攻撃で亡くなった人の半数近くがアリゾナの乗組員でした。1,177人の死者のうち、1,102人の乗組員の遺骨が今も船内に眠っています。

記念館屋外に設けられた会場の中央には漆塗りの黒いテーブルに精巧な茶道具が並べられました。政治家や退役軍人、市民リーダー、裏千家茶道家など200人以上の日米の来賓が集まる中、黒い着物を来て、銀色の髪をなびかせ、重々しい表情の千氏が現れました。

帛紗(ふくさ)で茶道具を清め、茶(ちゃわん)盌(ちゃわん)に抹茶を入れ、釜の湯を注ぎ、茶筅(ちゃせん)でお茶を点(た)てます。

真珠湾(米国ハワイ)にあるアリゾナ記念館での献茶式。

写真提供:裏千家

そして、そのお茶を記念館の中にある空襲で亡くなったアメリカ人兵士の名前が刻まれたメモリアル・ウォールまで運びました。千氏は、壁を見上げ、両手でお茶盌を掲げ、失われた魂に捧(ささ)げました。その後、茶盌を台に下ろし合掌し、静かに一礼しました。平和と和解の精神が会場に満たされました。全ての視線が彼に注がれ、沈黙のまま、献茶は終わりました。

「私は88年間生きてきましたが、今日ここで行われたことは、終生記憶に残るでしょう」と千氏は語り、「過去と向き合い、その教訓を未来に伝えることは、今生きている者の責任である」と、式典を締めました。

ハワイ出身の日系人エドウィン・フタ氏は、千氏と20年以上の付き合いがあります。2000年から11年まで国際ロータリー(RI)事務総長を務めたフタ氏は、アリゾナ記念館での献茶は世界中のロータリー会員の心に響いたと回想します。「この出来事は32カ国に伝えられ、多くのロータリアンの耳目を集めました。千氏がなさったことは、ロータリーの平和への絶え間ない探求と、分裂を克服する努力を体現したものです」

アリゾナ記念館のメモリアル・ウォール(亡くなったアメリカ人兵士の名前が刻まれた壁)に向かってお茶盌を掲げる千玄室氏。

写真提供:裏千家

平和と静寂の都、京都

第二次世界大戦中、京都は原爆投下候補地の一つでした。しかし、アメリカ陸軍長官のヘンリーL.スチムソンは、京都を守るべきと主張しました。その理由は二つの要因に基づくものでした。一つは、日本の芸術・文化の殿堂である京都を破壊し、日本国民や国際社会の怒りを買うのを恐れたこと。もう一つは、公にはしませんでしたが、1920年代にスチムソン自身が夫人と京都を訪れ、その美しさに感銘を受けたことです。

現実の悲劇として、原爆は広島と長崎に甚大な被害をもたらし、京都の栄光は辛くも保たれました。日本的な文化、精神の中心地であり続けた京都は、今も、日本の伝統を残し伝え、特に古くからの茶道の盛えた地域として、代表する三千家(裏千家、表千家、武者小路千家)があります。

千氏の自宅である裏千家の茶室「今日庵」(京都)。

茶室「今日庵」

京都の伝統的な町屋造りの細長い屋根に小雨が降り注ぎ、青々とした竹やぶの中、静かな世界が神秘的な空気を漂わせています。

京都の小川通にあり、代表的な茶室「今日庵」をはじめ国から重要文化財に指定されている由緒と歴史ある裏千家の15代家元が千氏となります。

兜門(かぶともん)をくぐると、手入れの行き届いた松に囲まれた緑豊かな露地が広がり、石畳の小道が続きます。この庭を通れば訪れた人は日常を忘れ、静寂に包まれて茶道の世界へ引き込まれていきます。

その先にあるのは、素朴な土壁の茶室。建物全体に漂う美学は、日本の茶道そのものを反映しています。シンプルで繊細、そして自然と人間との関わりへの深い思いが込められているようです。

小さな茶室の障子からは、自然光が差し込みます。漆黒のテーブルの上には、お茶の道具が並べられています。部屋の中央にある囲炉裏(いろり)の火が、3月の朝の寒さを和らげています。柔らかな明かりが部屋を照らし、厳かで神秘的な雰囲気を醸し出しています。

青色の着物をまとった千氏は、背筋を伸ばし、朗らかな声で来客を和ませながら、部屋に足を踏み入れました。身長178cm、凜(りん)とした風格が漂い、白髪は整えられ瞳は優しさと温(ぬく)もりをにじませます。4月に99歳を迎えた千氏は、20世紀という激動の時代を見つめてきました。培われた英知、先見性、人間性には頭が下がる思いです。

「過去と向き合い、その教訓を未来に伝えることは、今生きている者の責任である」

裏千家の伝統とロータリーの価値観 

「ロータリーは私の人生の中で大きな部分を占めています」と目を輝かせます。「1954年、31歳の時に父からロータリーを紹介されました。ロータリーの価値観は、裏千家茶道の『和敬清寂』にぴったりでした。ですから、父からロータリーの理念について話を聞いた時、私はすでに会員になることを考えていました。それから間もなくして、京都南RCに創立会員として入会しました。『ロータリーは単に楽しいだけの場ではなく、自己啓発、学習、そして地域社会に奉仕する場でなければならない』と先輩方がおっしゃっていたのを覚えています。この言葉が今でも私の耳に残っていて、奉仕に人生を捧げ、未知の世界に足を踏み入れ、困難に立ち向かう原動力になっています」

ウクライナの人道的救援活動についてロータリー会員に向けて話す千玄室氏。ホテルオークラ京都にて。

時折、千氏は、自分が参加したロータリーの活動を思い出しながら、その思い出をかみしめているように見えました。まるで宝箱のふたを開けるかのように、しっかりとした口調で思い出を語ります。

「1954年、私は京都に新しいクラブ、京都南RCを創立する手助けをしました。ロータリーを発展させるには、地域社会のために行動を起こさなければならないことに気付きました。また、私たちの功績が地域社会に認められる必要がありました。これは非常に重要なことでした。京都南RCが創立されたのは、日本が右肩上がりの高度経済成長期に入ったばかりの時期でした。経済発展の勢いは、私たちの街をも脅かす勢いでした。多くの歴史的建造物や文化財が取り壊され、環境にも深刻な影響が及んでいました」

千氏と仲間のロータリアンたちは、メディアを通じて一般の人々や企業に、史跡や環境保全の重要性を呼びかけました。また、クラブはシンポジウムを開催し、政治家、企業、市民リーダーを招いて政策について話し合いました。その結果、京都の歴史的価値を落とすような可能性のある建設プロジェクトを中止させたりすることができたのです。「私たちは地域社会の強力な代弁者となり、京都南RCはすぐに人々から信頼と支持を得ることができました」と千氏は言います。

1964年、父の死去に伴い、千氏は裏千家15代として家元を継承し、時を同じくして京都RCに移籍しました。公私共に多忙を極める中、ロータリー活動に精力的に取り組み、京都RC会長にも選出されました。「関西でロータリーの影響力を拡大することができました」と振り返ります。「例会では、日本や世界で困っている人々を支援するために資金を集めました。また、外国のクラブと文化交流プログラムや共同プロジェクトを実施しました。同時に、日本の若者と一緒に世界各国を訪れ、政府高官や王族、市民団体のリーダーたちと面会しました。どこに行っても、たとえそこにロータリークラブがあってもなくても、私たちは常にロータリーの哲学を広め、平和と調和というメッセージを伝えていきました」

 こうした活動により、千氏はロータリーの中で世界的に広く知られるようになりました。1988-90年度RI理事を、1998~2002年までロータリー財団管理委員を務めた後、04年に大阪で開催されたRI国際大会の委員長を務めました。国際大会には、世界中から4万5,000人以上が集まり、登録者数の最多記録を更新しました。

第二次世界大戦中には海軍航空隊に配属。

写真提供:裏千家

失われたものに敬意を払う人生 

千氏の平和構築の使命は、第二次世界大戦での体験から生まれました。1943年、同志社大学2年生だった千氏は、日本海軍の航空隊に徴兵されました。1年後の1944年10月、日本の戦況が悪化し、海軍は特別攻撃隊の編成を開始しました。

千氏は約200人の仲間と共に、爆薬を積んだ飛行機で敵艦を沈める特攻隊の訓練に参加しました。千氏は、先祖の千利休が切腹を命じられたように、自分もやがて悲惨な運命をたどると感じていました。

突撃の日、死を覚悟していた千氏は、突然、上官から待機命令が出されました。「行かせてください」と何度も訴えましたが、上官からは「待機命令だ」と命じられ、西日本の部隊に配属されました。戦後、元上官に会い、「なぜ出撃させてくれなかったのですか」と聞くと、「運命だと思え」と言われました。これが、今、千氏が背負っている運命の業なのです。

「生き残ったということは、大変なことでした。仲間も友人も亡くなり、妻も1999年に亡くなり、私は一人になってしまいました。そのため、仲間や生きるべき人たちの時間を受け継いだような、言いようのない気持ちになることがよくあるのです。彼らは、自分の命を私に託したのだと思っています。彼らのためにも、私は忍耐強く、よく生き、長生きして、自分の運命を全うしなければならないのです」と千氏は言います。

千氏は頭を傾けて目を閉じます。ユーモラスな表情から一転、喪失感と老いの孤独に包まれます。

しばしの静寂の後、千氏は笑顔で両手を広げ、雲が晴れたように意気揚々と続けます。「喪失感があるからこそ、ロータリーが私の家族だと思えるのです。孤独から解放され、大切にされていることを実感します。ロータリーの活動に参加し、ロータリーの若い会員と会うたびに、まるで家で子どもと一緒にいるような、特別な親しみを感じます。私を若返らせ、愛情と活力を与えてくれるロータリーと茶道には感謝しています」

師匠とお茶を頂く 

長寿の秘訣(ひけつ)は、たばこも酒もしないことだと言います。若い頃は武道(柔道)をたしなみ、馬術も長年練習してきました。1967年、馬術日本代表チームの控え選手に選ばれ、日本馬術連盟の会長も長く務めています。2008年には、北京オリンピックに馬術競技の日本代表選手と同行もしています。

裏千家のお茶の点て方を披露しながら、「お茶を頂くと心が落ち着くのです。心が静まれば、本を読み、知識を深め、集中力を高めることができます」と千氏は言います。

お茶を頂くと、千氏は「いかがですか」と聞きます。

濃い抹茶に濃厚な泡が立ち、あでやかな味わいです。渋みの中に甘みがある。一口頂くごとに季節の香りが広がり、新しい感動があります。ぜいたくで上品な味わいです。

話は、ロシアのウクライナ侵攻に移ります。会長エレクト研修セミナーの講師として招聘(しょうへい)された千氏は、京都のホテルで、約200人の次代を担うロータリー会員を前に、日本のクラブや地区が行っている人道支援活動について講演しました。「私の若い頃の悲劇が繰り返されています」と千氏は嘆きます。「国際社会の非難をよそに、ロシアの政治指導者はウクライナに対していわれのない戦争を仕掛けています。このような困難な時期に、ロータリーは何ができるのか、何をすべきなのか、私はいつも考えています。世界規模の戦争を防ぐために、何かしなければならないのです」

アンコールワット(カンボジア)での平和祈念献茶式。

写真提供:裏千家

千氏はしばらく考え込み、まるで世界を戦争から守る盾を持つかのように、茶道具を掲げました。未来の平和を守るために何ができるのか、その問いはいつも胸に重くのしかかっています。千氏は、若い世代に思いを託そうとしています。

「昔は、環境問題や気候変動が一番心配でした。自然と人間の共存を訴え、走り回ったものです。しかし、今、状況はさらに悪化しています。新型コロナに始まり、ロシアとウクライナの戦争。核兵器で世界を脅かす指導者もいます。これは市民、特に若い人たちを不安にさせます。この困難な時期こそ、ロータリーが影響力を拡大し、地域社会の支持を得るチャンスです。より多くの若者がロータリーと平和の使命に参加する必要があります」

ウクライナの人々を支援するための寄付は重要ですが、道徳的・精神的な支援も同様に必要であると、千氏は考えています。「若者たちは、もっと声を大にして戦争に反対する必要があります。「第二次世界大戦で亡くなった方々のことを忘れてはいけません。彼らの犠牲の上に今の私たちがあるのですから」

朝の霧が晴れ、障子を照らす一筋の陽光が、正午を迎えようとしていることを伝えます。湿った空気と、庭の土や植物の香りが、この場所が静寂であることをより一層引き立てています。

ロータリーと、茶人としての立場を通じて、千氏は完璧な生き方を見つけたようです。平和と相互理解を確保するためにたゆまぬ努力を続ける一方で、再び世界大戦という恐怖につながるような紛争を避けようとしています。

「裏千家の茶人であると同時に、日本のロータリーの精神的指導者でもある」とフタ氏は言います。「千氏の存在はそれ自体が奇跡であり、千氏の人生は無限の可能性を思い起こさせるものです」

Go Tamitami:ライター、テレビプロデューサー。東京都在住

本稿は『Rotary』誌2022年8月号、『ロータリーの友』誌2022年9月号に掲載されたものです。