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原爆から生き残る

東京米山友愛ロータリークラブ 川妻 二郎
(THE ROTARIAN誌  1月号から)

姉を見つけたが、そこに残っていたのは、遺骨のみだった。  

爆撃で死亡したと聞いていたので、身元を確かめに行ったのだ。姉と同僚が避難した防空壕(ごう)にたどり着いた時、目に入ったのは、見分けることができない黒焦げになった2つの死体だった。ただ、片方には金歯がはまっていたので、ない方が姉だと分かった。友人の方はご家族のためにそのままにし、姉の遺骨だけを拾った。

「平和」はロータリーの6つの重点分野の一つです。平和の推進のためにどう活動できるかをご覧ください。

大半の人は、親族に1時間でも長生きしてもらいたいと思うだろう。ただし、原子爆弾の爆心地にあった場合は、即死の方がよいと思った。そうであったことに感謝する。姉に対する最高の望みだったからだ。

1945年8月6日の朝、B-29に運ばれてきたのは、「リトルボーイ」と呼ばれた原子爆弾だった。それが投下されたとき、母も、父も、姉も広島にいた。私は広島大学の1年生、18歳だった。学徒動員で広島から70km離れた三原で、軍需工場で働いている高校生の監督役をしていた。そこでは戦闘機の燃料を作っていた。

この年の2月に徴兵検査の年齢が若くなり、18歳の私も繰り上げ検査を受けなればならなかった。私は初めて検査を受け甲種合格。ただし理科系は当分入営延期。ところが新たにできた学徒勤労令で、大学から帝人三原工場へ行き、航空燃料の新しい製法を実施することになった。普通、オキシフルを家庭などで消毒に使う場合は3%以下の水溶液にするが、これを加熱濃縮し98~99%までにすると発火する。この勢いを利用して航空機の燃料としたものである。これを7月からやるように決められていた。 

女性の声で「巨大な爆弾が午前8時過ぎに広島に落とされ、市内全域に火災が広がり、大きな被害は避けられない」という情報が流れてきた時、私は工場で働いていた。落とされたのが原子爆弾であったとはまだ知らなかった。3日間の休みを上司からもらって、実家に帰ろうと駅に走った。汽車がいつ運行を再開するのか、誰も知らない。三原の駅で待ち続け、広島に到着したのは、夜の8時過ぎだった。遅れた汽車のおかげで、私は高線量の放射線を浴びなかった。

実家に向かう途中、馬の死骸をかなり見たが、人間の死体は見なかった。72年後のつい最近、私はテレビ番組で、私がこの時歩いた道は、最初に清掃された道路だったと知らされた。もっと恐ろしい光景を見ずに済んだのだ。

実家は全壊していたので、近くの大学の構内にある避難所に行った。両親はそこにいた。母の頭から血が流れていたほかには、目に見える外傷はなく、声も出た。父は頑丈なコンクリート建ての会社に出勤していたので、けがはなかった。その夜、私も一緒にそこに寝た。翌日、姉の遺体を引き取りに行った。 

女子高校の教師であった姉は、結婚していたが、夫が軍人で国外にいたため、義理の母と郊外に小さな家を借りていた。夜間は空襲があるため、郊外に宿を借り、毎日広島まで仕事に通うことは、珍しいことではなかった。しかし、原爆が落とされる前日、姉は会議があったので、その夜は、義母と同僚の先生と市内の自宅に泊まることにした。空襲警報が鳴り、義理の母、姉、そして同じく居残った姉の同僚は、1階の下にある防空壕に入ろうとしたが、空間があまりに狭く、義理の母は、10km離れた郊外の家に向かって走って逃げた。 

姉の遺骨を見つけた後、私は、休みの3日目を姉の義理の母を捜しに行った。そこで目にした光景は、一生忘れることができないものだった。義理の母はあおむけに寝ていた。ゴルフボール大の血の塊を口にくわえたまま亡くなっていた。ひどいやけどで顔と胸は血だらけだった。放射線を浴び、苦しみながらこの家にたどり着いたに違いない。いまだに、彼女がどれほど苦しんだかと思うと、耐えられない。 

その後、もっと多くの悲惨な話を聞いた。被爆した女子学生たちの話だが、声が出せたので、自ら「お母さん、私桂子よ」と呼び掛け、それで母親はわが子だと気付いたというのだ。 

90歳になった今も、あの日のことをはっきり覚えている。このような爆弾はあるべきではない。人類は核兵器を持つべきではない。だから、私はこれからの人生を平和活動にささげる。

広島は75年間、草木も育たないと、言われていた。全てが破壊された。しかし、6カ月後、一部の樹木に芽がついた。希望が与えられた。より良い、より平和な世界への希望。 

最近、私は広島から東京に移り、新たな人生で残された歳月をロータリーと平和構築に専念することにし、グローバル補助金で、原爆から生き延びた樹木の苗木を植樹する活動をしている。このような「平和の樹木」を世界各地に植えることが私の目標だ。2017年のアトランタ国際大会の際には、カーターセンターにイチョウの木を植樹する手伝いをした。 

核兵器が全くなくなることはないかもしれないが、人々が私たちのような思いを経験しないよう、平和のメッセージを少しでも多くの世界に伝えることができれば幸いと思っている。

(2002-03年度 第2710地区ガバナー)

聞き手:Vanessa Glavinskas
イラスト:Richard Mia