サム・ハリスさんの少年時代は、ホロコーストによって奪われました。ハリスさんは今、次世代の若者が活躍できるよう力を尽くしています。
サム・ハリスさんは自分の過去を語り継ぐことに情熱的です。歩行補助器具を使って歩く88歳のハリスさんは、自身が設立を手伝った博物館の少し薄暗い入口で出迎えてくれます。この博物館は、自分が生き抜いた最悪の、そして自分がこの世からいなくなり、直接体験した人たちの声がどんどん小さくなって消え去ってからも、重要なストーリーを後世に語り継いでいくための場所です。
語り継ぐこと、これはハリスさんにとってたやすいことではありませんでした。
保険会社の元重役で、米国イリノイ州ノースブルック・ロータリークラブ会員であるハリスさんは、幼い頃にナチスにどのように迫害されたかについて、長年話したがりませんでした。ひどい飢え、恐怖心、機関銃、両親の殺害、家畜運搬車、強制収容所……。もう大昔に終わったこと。語ることに何の意味があるだろうか。自分はもうアメリカ人なのだ。シカゴ北部の閑静な街ノースブルックに住む一人のアメリカ人少年となり、そして大人になってからは、何を話したいか、話したくないかを自分で決められるアメリカ人男性となったのだから。
ホロコーストについて語ることを拒む日々が長年続きました。62年連れ添った妻のディーディーさんは、「ホロコーストのことすべてが夫の内側に潜み、悩ませていた」と話します。「自分の過去を決して口にしませんでしたが、その記憶に苦しめられているのがわかりました」
内心は複雑でした。同情は欲しくありませんでした。それに、自分の成功を、過去に起こったことではなく、自分の手で勝ち取りたかったのだと、博物館にある本でいっぱいの小さな図書室でハリスさんは説明します。誰かが英語のなまりに気づき、出身国を尋ねられたら、彼はこう答えていました:「どこだと思いますか?」 その人が「ニューヨーク」と答えたなら、「その通り!ニューヨークですよ」と返しました。「ドイツ」という答えが返ってきたら、「そうです、ドイツです。どうしてわかりましたか?」と笑顔で返していました。
ベテランのソーシャルワーカーである妻ディーディーさんはある夜、暖炉の前に座るよう夫に促し、「話してくれない?」と頼みました。「夫が抱えていた行き詰った気持ちがほぐれたようでした。自分の気持ちを言葉にできたことで、ほかの人にも心を開けるようになったのだと思います」
プロセスはゆっくりと始まりました。1977年にイリノイ州ウィルメットで開かれたロータリークラブの例会で、ウィーン育ちのラビ(ユダヤ教指導者)であるウィリアム・フランケルさんに出会いました。フランケルさんもナチスから逃れましたが、彼の場合は自分の過去を背景に行動主義の人生を歩み始めました。フランケルさんは、1960年代の米国公民権運動中、マーティン・ルーサー・キング・ジュニア牧師と共に行進し、カトリックとユダヤ教の支援活動で知られていました。ハリスさんと親しくなったフランケルさんは、自分のストーリーを語ることは未来の世代のため、とハリスさんを説得しました。
その頃、ネオナチのグループが、当時人口の半分がユダヤ人で多くのホロコースト生存者が住んでいたシカゴ郊外のスコーキーでデモを計画しました。長い法的闘争によってデモは防がれましたが、ラビであるフランケルさんのような活動家は、黙って何も行動を起こさないことはもはや選択肢ではないと考えていました。悪が台頭する中で、ただ希望を持って待つことは、決して賢明な戦略ではありませんでした。
一方、ハリスさんが住んでいた場所から約15キロ離れたエバンストンにあるノースウェスタン大学の電気工学准教授であるアーサー・ブッツ氏は、ホロコーストが連合国とシオニスト(ユダヤ民族主義者)によって受け継がれた神話であると主張する本を出版しました。フランケルさんはハリスさんに電話し、この本に対する嫌悪感を露わにして、「サムさん、辛いとは思うけれど、今こそあなたが話をしなければ」と促しました。
フランケルさん宅の地下室で、ハリスさんはビデオカメラに向かって口を開きました。「話をしたのはその時が初めてでした」とハリスさんは振り返ります。「もう二度と話さないと自分に言い聞かせました。でも、フランケルさんはこの動画を信者に見せる機会を設け、大勢の人が集まってくれました。その後、フランケルさんはこの動画をほかのラビたちにも送りました。これはすべて、ロータリーのおかげでした」
ホロコーストから30年以上が過ぎ、ハリスさんはこうして、それまで語れなかった過去について話し始めました。
「話してくれない?と頼みました。夫が抱えていた行き詰った気持ちがほぐれたようでした。自分の気持ちを言葉にできたことで、ほかの人にも心を開けるようになったのだと思います」
失われた戦前のユダヤ人の世界、人類史上最も暗い歴史、そして今日に至るまでの生き証人であるハリスさんは、イリノイ・ホロコースト博物館・教育センターのロビーに、生き生きとした姿でやってきました。三輪歩行器の力は借りていますが、鮮やかな青いシャツを着て、笑顔で冗談を口にします。その隣には妻のディーディーさんがいます。ユダヤ人のモンタージュ写真が展示された場所を通り過ぎるハリスさん。その中には彼の写真もあります。多くの仲間が今は亡き人となりました。「私はあなたの心を弱くするために話したのではありません。むしろ、強くするためです」とモンタージュ写真の部分に書かれています。
ハリスさんは1935年、ポーランドのデンブリンで生まれました。本名はシュラメク・ジェズニク。7人兄弟の末っ子でした。父親は律法学者で、トーラやほかの神聖な文書を書き写し、修復する書士でした。4歳の頃、安息日の夕食、週末に馬車に乗って祖父母を訪れたことなど、ありふれた日常の最後のときを覚えています。その頃の愛情と笑顔に満ちた何げない毎日の記憶が、それから起こる日々を耐えさせてくれました。
時は1939年。「昼食中だったことをはっきりと覚えています」とハリスさん。「空から音がしました。ドイツ空軍がポーランド空軍を攻撃していたのです。デンブリンには飛行場がありました。まもなく、同じ戦闘機が人々を追いかけてきました。その時初めて、死んだ人を見ました」ナチスは急速にデンブリンを制圧し、ユダヤ人家族たちはゲットー(ユダヤ人隔離地域)に強制連行されました。食料が不足するようになり、飛行場の強制労働者収容所で働くことを余儀なくされた姉ローザさんは、家族のために少しの食べ物を持ち帰ることができました。
1942年のある日、ナチスの兵士を乗せたトラックがゲットーに押し寄せました。銃と銃剣を持った兵士たちは、ユダヤ人を町の市場に集めました。「拒んだり、速く歩かないと、兵士たちはその人を刺したり、撃ったりしました」
近くでは、家畜運搬車がユダヤ人を強制収容所に運ぶために待機していました。目的地は推定70万~90万人のユダヤ人が殺害された、ポーランド東部のトレブリンカ村近くの収容所だったのではないかとハリスさんは考えています。「私は父と手をつないで立っていました。小さかったので、人の足しか見えず、銃声が聞こえました。ただ空を見上げることしかできず、守護天使が守ってくれている気がしました」と振り返ります。
父親はハリスさんを列から押し出し、走って逃げるように言いました。幸いにもナチス兵士はそれに気づかず、ハリスさんは走り出しました。姉のサラさんがレンガの後ろに隠れているのが見えました。2人の子どもたちがしゃがみ、両親やいとこ、兄弟姉妹、隣人たちが家畜運搬車に向かって歩くのを見つめていました。それがハリスさんが彼らを見た最後でした。
ハリスさんとサラさんは姉のローザさんと再会しました。捕まる寸前の状態だった2人を、ローザさんは強制労働収容所に忍び込ませました。ハリスさんは働くには幼すぎるため、見つかったら撃たれてしまいます。彼はひたすら身を隠しました。
ここで運命が介入します。収容所のもう一人の囚人、ヘルマン・ウェンカートという名のオーストリア系ユダヤ人が、第一次世界大戦中に一緒にオーストリア軍に従軍したナチス兵を見つけました。このナチス兵、エドゥアルド・ブロモフスキーは、戦闘で負傷したときにウェンカートさんに安全な場所に引きずってもらい、命を救われたことがありました。命の恩人として紹介されたほかのSS(ナチス親衛隊)将校たちは、ウェンカートさんの過去の勇気に感銘を受け、彼を囚人担当長に任命しました。
1944年、前進するロシア軍から逃れる際、ナチス軍はユダヤ人強制労働者をポーランド南部のチェンストホヴァ近くの強制収容所に移動させ、前線用の弾丸を作らせました。撤退前、ウェンカートさんは、ある将校に頼んでチェンストホヴァの当局への手紙に署名してもらいました。それは、娘ルティとそこに着いたほかの子どもたちの命を救うよう求める手紙でした。
一方、ハリスさんと姉妹たちはチェンストホヴァに到着し、看守がすぐにハリスさんを引きずり出そうとしました。「姉のローザが泣いていて、私は行きたくありませんでした」とハリスさん。「看守は私の小さな胸を蹴飛ばしました」看守はハリスさんをつかんで、ほかの4人の子どもたちと一緒の部屋に移動させました。翌日、全員が銃殺されることになっていました。そこにいた子どもの一人がルティさんでした。
ウェンカートさんは、収容所を担当していたナチス将校に手紙が渡されたのを見ました。最初、その将校はルティさんだけを生かすことに同意しましたが、ウェンカートさんは、首を横に振ってこう言い張りました:「全員救うか、全員殺すか、どちらかだ」ナチス将校は最終的に譲歩し、子どもたちを収容所に入れました。
日中、ハリスさんは影の中に潜んでいました。女性棟で寝泊りし、逃亡しようとした囚人の絞首刑が行われたトイレに行くのが怖くていつもおねしょをしていました。「ベッドは黄麻布の藁でできていて、腐り始めていました。その上で寝ていましたから、ノミとシラミだらけでした。耳にも入り、全身が赤くなりました」
1945年1月、ソ連軍はチェンストホヴァ収容所を解放しました。ハリスさんはあまりの空腹で、ほかの囚人が台所からバターの塊を持ってきたとき、すべてを食べてお腹を壊してしまいました。
ぼろぼろの靴を履き、ほかの生存者と一緒にデンブリンに戻りましたが、自宅は民間人に占領されていました。ローザさんがウィーンのユダヤ人男性と結婚した後、ハリスさんとサラさんは孤児院に預けられました。1946年、ローザさんは、サムさんとサラさんをポーランドからオーストリアに入国させることに成功し、アメリカでの養子縁組を手配しました。二人は大西洋を何とか横断し、1947年にニューヨークに到着しました。「船で学んだ三つの英単語は、『はい』、『いいえ』、『コカ・コーラ』」とハリスさんは振り返ります。
ポーランドの小さな町で育ち、恐ろしい収容所で5年間を過ごした少年にとって、アメリカはどのような国だったのでしょうか。「ガムを噛んだり、白いパンを食べたり、アメリカ人が机の上に足を置いて座り、椅子に寄りかかってステーキを食べていたのを覚えています。なかなかいいじゃないかと思いましたよ」二人は別々の家族の養子となりました。「強制収容所から2人の子どもを欲しがる人はいませんでした」とハリスさん。ハリス家の養子になってノースブルックに引っ越し、サラさんはシカゴの家族と一緒に暮らしました。
「ただのアメリカ人の少年」になりたかったハリスさんは、さまざまなクラブ活動に参加し、学級委員を務め、同級生からも人気がありましたが、誰一人としてハリスさんの過去を知りませんでした。「頭の中にレンガの壁とコンクリートの壁を作って、絶対に過去については話さないと決意しました」でもこれは昼間だけのことで、夜になると不穏な夢が壁を突き破ってきました。「私が悲鳴を上げると、養母が一緒に座って泣いてくれました」
大学に進学し、保険業界でのキャリアで成功を収めました。ビジネスの成長に伴い、1967年にロータリーに入会。シカゴ・ロータリークラブの会員だったいとこが、例会に連れて行ってくれました。「とても気に入りました。私はそれ以来のロータリアンです」とハリスさんは話します。
1978年、NBCはミニシリーズ「ホロコースト」を4夜にわたって放送しました。1億人以上のアメリカ人が視聴し、「ホロコースト」という言葉が一般的に使われるようになったきっかけとして知られています。同年、ジミー・カーター大統領は、ワシントンD.C.に米国ホロコースト記念博物館を設立するための委員会を設立しました。
後のイリノイ・ホロコースト博物館となる施設も作られました。ハリスさんが「小さな博物館」と呼ぶこの施設は、1984年にスコーキーのある店頭で始まりました。寄付が寄せられるようになり、2006年、グレンコー公立図書館がニュルンベルク裁判の記録を寄贈しました。
ハリスさんは、「サミー: ホロコースト(大虐殺)を生き延びた少年」 という本で自身のストーリーをつづりました。しかし、1990年代、小さな博物館や本だけでは不十分だと感じました。でも、どうすれば大きな博物館を作れるだろうか。どこから始めればいいのか。しかし、活発なロータリアンであったことが功を奏しました。ハリスさんはこう振り返ります。「大勢のロータリアンと円卓を囲んでいたとき、博物館を建てるために、昨夜ボランティアに名乗り出たんだが、と彼らに言ってみたところ、全員が関心を示してくれました。資金集めを担当する人、土地探しをする人、建設を担当してくれる人がすぐに見つかりました。最初の委員会はロータリーでした。みんなが私と一緒にボランティアをしてくれました」
博物館が完成に近づくにつれて、ハリスさんはそれが単なる記念の博物館ではなく、コミュニティの一部となることの重要性を強調しました。「博物館の目的は人びとを教育すること」とハリスさんは言います。「第二次世界大戦から時間が経てばたつほど、ガス室や大虐殺についての記憶が薄れていきます」
40歳未満のアメリカ人を対象とした最近の調査では、12%が「ホロコースト」という言葉を聞いたことがないことが分かりました。ほぼ半数の人が強制収容所名を一つも挙げることができず、63%がホロコースト中に殺害されたユダヤ人の数を知りませんでした。1980年代後半、ハリスさんはイリノイ州の公立学校にホロコーストの歴史を教えるよう求めるキャンペーンに参加しました。
この博物館は2009年に開館しました。有名な建築家であるスタンリー・タイガーマンが設計を手掛け、ホロコーストの非人間的な恐怖を表現し、暗闇から光への旅路を示すように、灰色と白の建物となっています。強制収容所の制服、輸送のための家畜運搬車、絵画やその他の個人的な品が展示されているほか、来場者に分かりやすい年表やナレーションも含まれています。
博物館の支援においては、ロータリー会員が引き続き重要な役割を担っています。イリノイ州の複数のロータリークラブは、ロータリー青少年交換留学生たちによる博物館訪問を支援しています。そのうちの1人がハリスさんの本を日本に持ち帰り、その父親が日本語に翻訳しました。第二次世界大戦中に669人の子ども(大半はユダヤ人)を救出したロータリアンのニコラス・ウィントン卿に敬意を表して、複数のクラブが2013年にイベントを開催しました。
ハリスさんは、ロータリーの青少年プログラムであるインタアクトやローターアクトを通じて、青少年の教育に積極的に関わるようになりました。「ロータリーで最高の活動でした」とハリスさんは話します。これらの若者は、コミュニティセンターやシニアセンターで活動したり、資金を調達したり、海外の他のクラブと連絡を取ったりしました。ハリスさんは次のように話します。「人種だけが理由でほかの子どもたちに残酷な悲劇が起こってほしくないのです」
博物館の名誉会長であるハリスさんは、館内を案内しながら、ガラスケースに飾られているひび割れた茶色の革ベルト(彼のベルト)のところで足を止めました。「このベルトは、強制収容所から唯一持ってきたものです」。養子縁組のための書類など、記録となるものが入った引き出しを空けながらハリスさんが説明してくれました。「子どもたちが経験した飢えや、目撃した死と苦しみを訴えかけています。二つにバラバラになってしまいました。私は、物理的なものはバラバラになるけれど、人の精神、つまり私の精神は決して壊れることはないと伝えたかったのです。ほかの多くの人たちの精神も同じです」
「ホロコースト犠牲者を想起する国際デー」は、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所の解放記念日である1月27日です。