民族間の団結を象徴する橋
1992年に旧ユーゴスラビアで紛争が始まったとき、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボで建築を学んでいたイェセンコ・クルポさん(現在55)は、戦火を逃れるためにプラハに住むいとこの元に逃れました。一時的な避難で済むと考えていましたが、最終的にユーゴスラビア解体へとつながった一連の民族対立により、紛争は1995年まで長引きました。この紛争で、ボスニアでの死者数は約10万人、避難者数は200万人を上回りました。
1998年、クルポさんはやっと故郷モスタールに戻りました。ボスニア・ヘルツェゴヴィナ南部にあり、山々に囲まれたこの都市は、中心部を流れるネレトヴァ川にかかる美しい石造りの橋で知られています。クルポさんにとって終戦は、帰郷だけでなく、故郷を再建する機会でした。「何もかも破壊されました。自分はエンジニアなので、この町にとって必要な存在になるだろうと思いました」と当時を振り返ります。
紛争でモスタールの建築物の約70%が甚大な被害を受けました。16世紀のオスマン帝国時代に造られ、この町の名の由来でもあるアーチ型の石橋「スタリ・モスト」(「古い橋」の意)も、容赦ない爆撃により崩壊しました。
修復が必要なのは建築物だけではありません。民族の分断が多くみられるこの地域でも、モスタールは多民族が調和して暮らす町として知られていました。しかし、紛争によってネレトヴァ川をまたいで片岸にクロアチア人、もう片岸にボシュニャク人というように民族が分断。デイトン平和合意により紛争は終結され、ボスニア・ヘルツェゴヴィナは存続したとはいえ、民族の亀裂によって平和は不完全でしかなく、中央政府も脆弱でした。
政府による対応が遅れる中、モスタール・ロータリークラブの会員は、政府にできないことは自分たちでやろうと考えました。2002年に設立されたこのクラブは、会員たちが知る限り、紛争後にこの町で生まれた初の多民族団体です。創立会員であるビジネスマン6名の中に、クルポさんの父も含まれていました。「このクラブは、深く分断されたモスタールの人びとの団結という前向きな変化の始まりでした」とクルポさんは言います。
今も残る数少ない創立会員の一人、マリンコ・マリッチさん(70)は、紛争の根源に取り組むことで平和を築くというロータリーのアプローチに共感しました。経済学者としての職を引退し、現在は不動産の仕事をしているマリッチさんは、モスタールに必要なのは「寛容の象徴となるクラブ」だと言います。
文化と連帯感
コミュニティを築くためにモスタール・ロータリークラブが取っているアプローチの中心にあるのは、この地域の文化を祝うこと、そして楽しむことです。数名の会員が楽器を演奏し、イェセンコ・クルポさんもその一人です。「45℃」というロックバンドのギタリストであるクルポさんは、伝統音楽グループでタンブリツァと呼ばれるリュートも演奏しています。
子どもの頃から楽器を演奏していたクルポさんは、小学校時代に「シェークスピア」というバンドに所属し、「演奏で初めて稼いだのは12歳のとき」だと言います。
地元のカフェやバー、レストラン、パーティで演奏するクルポさんは、紛争中にもイスラム教文化団体で演奏しました。その時の聴衆の中には、マルティナ・ショルイッチさんをはじめ、ロータリークラブの会員もいました。ショルイッチさんも、外科医になることを決める前には、音楽学校でピアノを学んでいました。
「みんなが一つの大家族のよう」(マリッチさん)だったこの町で、紛争前のような連帯感を取り戻そうと会員たちは考えました。
そこでクラブが乗り出したのは、分断の懸け橋となること、それも文字通り、スタリ・モストの石橋を再建することでした。二つの塔をつなぐこの橋は、長年、平和と友情のシンボルとして市民に愛されてきました。命知らずの人たちが橋から約22メートル下の川に飛び込む大会は、何世代にもわたる伝統行事となっています。この橋を題材にした芸術作品も多く作られてきました。そのような橋を愛してやまない地元市民は、元の橋に使われたのと同じ石切り場の石を使って正確なレプリカを復元すべきだと主張しました。
当時のクラブ会員21名のうち、建築家、土木技師、市行政官など5名の会員が、橋の再建を手伝いました。工事はユネスコの援助の下で行われ、2004年に完成。和解のシンボルとして、ユネスコ世界遺産の一部となりました。
「この橋は、私たちのレガシーとして人びとの団結を促していくでしょう」とマリッチさんは言います。
この町を信じて
会員数は13名と比較的少ないですが、このクラブにはボスニアの三つの主な民族グループの代表と2名の女性会員がいます。会員を結びつけているのは、共感と理解の心。「それに、みんな大のワイン好きです」と、クラブ会長のシナン・メルジッチさんは冗談っぽく言います。
2016年にメルジッチさんがクラブに入会した理由はただ一つ、「人助けができるから」。その言葉通り、クラブでは孤児のための奨学金、特別ニーズがある子どもたちへの支援、ロマ人の少女たちのための教育プログラムといった奉仕活動をしています。また、ホームレスの人びとを支援する地元の非営利団体のための資金も監督しています。
クラブはさらに、ボランティアで子どもへの治療を行う歯科医師たちに機器を提供するプロジェクトも実施しています。このプロジェクトが生まれたきっかけは、外科医である会員のマルティナ・ショルイッチさん(43)が、同じ病院で働いていた歯科医師と話したことでした。サラエボ育ちのショルイッチさんは、子どもの頃に親戚のいたモスタールをよく訪れました。中心に川が流れる緑豊かなモスタールは、この地域で一番美しい町だと言います。
紛争が起きたとき、ショルイッチさんは家族とともにバリケードや兵士たちをかいくぐってサラエボを逃れ、クロアチアに定住しました。現在はクロアチアで仕事をしていますが、2021年に入会したモスタールのクラブ、そしてモスタールの町を見捨てるつもりはありません。「長年、荒廃したまま、放置されていました」
ショルイッチさんやほかの会員はこれを変えようとしています。紛争中に地元の人道支援団体で仕事をしていたズラタン・ブルイコさん(70)は、2005年にクラブに入会。今ではクラブのゴッドファーザー的な存在で、会長も2期務めました。このクラブの最も重要な特徴は多民族の会員がいることだと、ブルイコさんは考えています。
ショルイッチさんもこれに同意します。「少人数でも、活動を通じて確実に変化を生み出しています」
本稿は『Rotary』誌2024年11月号に掲載された記事を翻訳・編集したものです。